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言葉は世界なり。
世界は言葉なり。
人々が操る言の葉は全てが世界の中心へと繋がり、広がっていく。
言葉は扱う人々の願いを叶えもするが、絶望にも落とすことが可能だ。
また、世界の存亡も然り。
伝える言葉を吐きだした瞬間からその言葉は世界の絶対となり人との絶対となる。
創西暦三百八年 ユーグの日記より
「見て、空が紫だよ。」
そういったのは誰だったか。
つい最近だった筈なのに霧がかかったようにその顔も朧げだ。
思い出そうと記憶を辿るほどにその影が遠ざかってゆく。
だから思い出そうすること自体もやめた。
唯一、覚えていることといったら夕日が沈む少し前の異様な紫だ。
見上げた瞬間それを目に閉じ込めてしまったように今でも鮮烈に記憶に残っている。
確かに見上げた時には隣に誰かいたのに・・・・。
今思うと何かの前触れだったとしか思えないんだ。
真っ赤に染まった部屋は本棚に囲まれている。
窓だけがその太陽の光を受け入れ部屋に赤を取り込んでいる。
あとはやはり全て本棚でもちろんその中には溢れかえるほどの本たちがひしめき合っている。
調度、木目の分かる床からクモの巣が巣食っている天井までぴったりの本棚である。
まるでオーダーメイドのような正確さだ。
ふと顔を上げたアキノは既に夕方になったことを初めて知った。
夕日が眩しくて思わず目を細めてしまった。
あまりにもリヒトから与えられた本に熱中しすぎてしまったらしい。
どうも自分は集中したら周りが見えなくなってしまうようだ。集中を解いたらまるで夢から醒めたようにぼうっとなる。
これは子供の頃からの癖みたいなものだ。
「もう読み終わったのかい?」
いつの間にかリヒトが扉の内側に佇んでいた。
彫りの深い端整な顔立ちを最初見たときは流石に胸が高鳴ってしまった。
それに金の長髪が似合う人なんて早々いないと思う。しかし、もう何年もここにいるとなると慣れてしまうものだ。
あれかな、美人は三日で見飽きるものなのかな。
「うん、ついつい読み込んでしまった。」
リヒトはアキノの保護者的立場だとアキノ自身は思っている。
随分と世話と掛けているし、精神的にも寄りかかっていると思う。
アキノはリヒトと一回りほどしか年齢の違いがないと思う。聞いたことはないが、父と娘ほど離れてはいないが、兄と妹というほど近くもないだろう。
それでもアキノはリヒトに感謝していた。
「アキノ、君はこの書斎の本を大分読んだね。」
やさしく笑うリヒトの笑顔は最初から好きだった。
「うん。」
「実はね。ここをそろそろ離れなくちゃいけないんだ。少し長居しすぎたみたいだ。」
リヒトは苦笑をこぼした。
彼はアキノには語ってはくれないがどうも逃亡生活をしていたらしい。
リヒトはもう三、四年ここに住んでいる。ここはミン国のサリチェの森の奥深くにリヒトが建てた家だ。
森の奥深くに住んでいたので案外食べ物にも不自由なく過ごせて、街にもあまり足を向けなくてもどうにか生活をしていけていたのだ。
だからいつもよりも長くここに留まることができたのであろう。そしてもう一つの理由がアキノだ。
「ごめんなさい。」
「いや、謝ることはない。それをいうなら感謝しなさい。それに私も楽しかったしな。」
こんどはちゃんと笑ってくれたリヒトにアキノはほっとした。
「しかし、お前を私の事情に巻き込むことはできないよ。大分、言葉を使うことにも慣れてきただろう。普通に話せるくらいにはなってきた。それだけでもう安心だ。お前は上手く言霊を操れるようになるだろうよ。」
その大きな手のひらをアキノの頭の上にのせる。そしてゆっくりとその漆黒の髪をなでる。
「置いて行かれるってこと。」
ぽつりこぼしたアキノの声は震えていた。
なんの前兆もなく、その笑顔はアキノを見守り続けていてくれていたのに、あまりにも唐突すぎる。
「すまない。お前を学園に入れて、行こうと思う。」
「連れていってはくれないみたいだな。私は巻き込まれたっていいのに。」
本当はみっともなく泣いて喚いて縋りつきたい気持ちを押し殺して言うアキノはリヒトの顔を見られなかった。
顔を見たら縋りついてしまうのが目に見えていたからだ。
「私が厭なのだよ。守りきれる自信がない。」
思わず大きく目を見開いてしまった。ついで、顔をあげてしまう。多分、黒い自分の目は潤んでいただろう。それでも強くリヒトを見つめた。
「分かった。私が追い付くよ。絶対強くなって、リヒトに追いつく。」
「アキノ・・・・。」
物分かりの良いふりは止めだ。
あまりにもリヒトのそう言った声が掠れていて泣きそうだったから。
いつか絶対守られなくてもいいように強くなって見せると誓った。
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